●歴史 〜創業者 〜木下剛夫とは |
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『出会い』
はじめに、木下剛夫さんのことを、いつも剛ちゃん(たけちゃん)と呼んでいるので、以下 剛ちゃんと書きます。
剛ちゃんとの出会いは、1983年(昭和58年)4月のことです。 剛ちゃんは尾道から、私は愛知県から、大阪体育大学に先生になるという希望を胸に入学しました。 そして、陸上競技部に入ったときから、付き合いが始まったのです。 同じ中長距離ブロックに所属していましたが、 剛ちゃんは中距離、私は長距離、住まいも下宿と寮ということで、最初のうちは、あまり話もしなかったような気がしますが、 いつのまにかいちばん仲の良い友達になっていました。 自分としては剛ちゃんのほのぼのとしたやさしさが心地よかったのではと思っています。 そうそう、剛ちゃんの最初の印象ですが、色が黒くて、ひょろっとしていて、背が高く、丸刈りだったので、 なんか黒人ぽいっていうか、今で言うと、タイガー・ウッズって感じでした。 もちろん最初の自己紹介は、「わしじゃけ、剛じゃけ」だったということは言うまでもありません。 『学生生活(勉強編)』
あまりいっしょに講義を受けた記憶がないのは、きっと私がまじめで、剛ちゃんがサボってばかりだったからでしょう。
なんていうのはまったく逆で、剛ちゃんには、よくノートを貸してもらいました。(あの時はありがとう!助かりました。)
でもこれは、剛ちゃんの唯一の弱点といいますか、欠点というか、字があまり上手ではなかったので解読不能だった記憶があります。 それにテストの時もこっそり見せてもらったのですが(それってカンニング)、よく読めなかったせいで赤点なんてこともあったかな。(これは逆恨み?) まぁ、とにかく、剛ちゃんは、大阪体育大学、いや陸上部、いや中長距離ブロックでは、いちばんの優等生であったことは事実です。 さすが尾道の天童!ちなみに私も人のことは言えませんが、字の面では、パソコンの恩恵をかなり受けている二人であることは間違いありません。 (現在は達筆かもしれません。あくまで当時の話です。) 『学生生活(陸上競技編)』
剛ちゃんの大学での競技生活は、勉強同様、練習はサボるは、レースではすぐ諦める私とまったく違い、
練習はきわめて熱心、レースでも辛抱強い粘りがありました。
これは、今も変わらないと思います。 ただ、記録が思うように伸びなかったり、故障なんかでかなり悩みながらの競技生活であった気がします。 よく練習していると感じたのは、故障中にゆっくりと長くジョギングしている姿をみたせいでもあるのかもしれません。 私は長距離が専門でしたが、実のところ中距離が好きで、よく1500Mとか800Mのレースに出場して、剛ちゃんの邪魔をしていましたが、 剛ちゃんの競技に取り組む姿勢、情熱というものから、いろいろ教えてもらいました。 故中村清監督の「天才は有限。努力は無限。」や 故徳重監督(中京商業)の「結果より、経過」と言うことを実践していたのが、剛ちゃんだったと思います。 私も大学時代、やる気が途切れたこともありましたが、 最後まで(4年生の夏まで部活に参加していたばか者ですが)情熱をもってがんばれたのは、剛ちゃんをはじめ、仲間のおかげと感謝しています。 剛ちゃんの競技記録はどうであったか記憶が定かではありませんが(卒業してからのほうが輝かしい気がします。)、 私の方がはやかったと思います。(どんぐりの背比べです) 『学生生活(生活編)』
よく剛ちゃんの下宿に遊びに行きました。
行くと必ず、レーズンパンのトーストにバターをたくさんつけてご馳走していただきました。 (というか、強引に食べさせてもらっていたのですが) 恩師の方のところにも記載してあった、カレーも食べさせてもらったような気もします。 パンなんかは、きっと明日の朝食であったであろうに、何も言わずご馳走してくれました。(剛ちゃんに感謝ばかりです。) そんな剛ちゃんもお酒を飲むと豹変!なんてことはなく、みんなと楽しく飲み、そして、いつものように少し目の周りを赤くして、 「わし、腰が痛いけん、座布団くれ」と言い、眠ってしまうのでした。 そうそう、寝るときはだらんとしていましたが、走るときも、バイクに乗っているときも常にピンと背筋を伸ばし、 少しお尻を出した姿勢が思い浮かんできます。 『私からみた剛ちゃん』
誠実、努力、思いやり、やさしさ、信頼、忍耐、創造力、行動力と豊かな人間性で、周りの人にも何か自然と力を与えてくれる、
そんな人だと思います。(なんか選挙の推薦文みたいで、ちょっと誉めすぎかな?)
信用も、信頼もできる人なので、今後ともキノシタ株式会社ともどもよろしくお願いします。
大学時代の友人でした。 以上。
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