●歴史

●キノシタの初代「木下林次郎」からのいわゆる「キノシタファイル」。
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初代・木下林次郎 編
Memorial PHOTO

●剛夫・博香 結納の日の朝
おばあちゃんがとっても嬉しそうな顔をしていました。


●祖父母と4人の子供(祖父の左後ろ・力夫叔父さん、祖母の後ろ 父・昌英)

木下林次郎の年表 ↑UP

年月 木下林次郎の歴史 木下林次郎と木下林次郎商店
明治34年 木下家三男として瀬戸田町に生まれる
生家は食品小売業を経営

広島工業に進学し、卒業後三菱重工業名古屋工場にて軍事用飛行機を制作

昭和初期 父親が他界して瀬戸田に帰り店を継ぐ
治誉と結婚し昭和9年長男昌英誕生
昭和10年代 次男・長女・三男が誕生
大阪へ移住

尾道へ移住
目が悪かったため徴兵されず友人の経営している建設会社で総務部長を担当

店を廃業し、大阪の豊中にて澱粉の卸売業を創業
やがて食糧統制でできなくなり広島へ帰ってくる
昭和20年代 長男昌英が高校を卒業し、大阪の日本澱粉へ就職
林次郎は病気になり昌英が尾道へ帰ってくる
49才で再度木下林次郎商店を興す
最初は蒸しパンの製造・卸をするやがて食糧統制がなくなってきてパン製造は止め、澱粉の卸を始める

長男昌英が尾道へ帰ってきて仕事を手伝い始める

昭和35年 昌英が結婚し、翌年林次郎の初孫が誕生 三男力夫が大阪の修業先から帰ってきて仕事を手伝い始める
昭和40年 二人目の孫剛夫が誕生
林次郎は大病をし長期療養する
昭和47年に潟Lノシタに名称変更する
昭和53年 林次郎他界

しんぶんの切り抜き(林次郎コレクション) ↑UP
日本経済新聞より

昭和37年9月3日

昭和37年10月1日

昭和41年9月27日

祖父・木下林次郎について ↑UP

 私が生まれた年に大病をし、長期療養をしたという事で、私の心の中のイメージとしては「やさしいおじいちゃん」という印象が強い。
 おじいちゃんは私が中学2年の時に他界したのだけれど、悲しいかなゆっくりと話をした記憶が私にはない。その為、このホームページを制作するにあたって両親や親戚や取引先等々沢山の人に“木下林次郎という人間”について話を聞いた。多くの人に共通したその“人間像”は「自分に厳しくそして人にも厳しい人」であり「どんな人にも根底に愛情をいつももっていた人」ということだった。
 なぜ瀬戸田でしていた小売業を廃業したのか・蒸しパン製造をやめ卸売業にこだわったのかそこのところは明確な答えが出なかったのが残念だった。
 しかしただ一つはっきりと言える事はおじいちゃんには卸売業が楽しかったんじゃないかということだった。
 私のおじいちゃんに対する一番印象に残る出来事は11月に他界したその年の夏に親戚を呼んでみんなで庭で昼食を食べた時お医者さんから止められていたビールを小さなコップに注いでもらい「うまい!!」といいながらそれを飲み干した時の素晴らしい笑顔だった。
 あの顔は脳裏に焼き付いていて私には一生忘れられない。
私が3才の時に建てられた家の庭にて。
この庭で死ぬ前の夏おいしそうにビールを飲んでいた。
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