●歴史 〜創業者 〜木下剛夫とは

山下 基向山 徹岡本公子石川哲也再会今考えている事
木下剛夫について
元尾道北高等学校陸上部
監督 向山 徹
  5月16日(日)午後、NHKテレビの「中学生日記」を見終わったころ誰かの来訪を告げる我が家の「ピンポン」が鳴った。 誰かと思えば木下剛夫君であった。アサヒスーパードライ缶ビールを手土産に戴いた。
これを飲んでいる間は、必ず木下家や剛夫君のことを頭に浮かべているに違いない。 用件など無くても訪ねてくれる人は歓迎しているが、大概の場合何となく何のために来てくれたなと言うことは分かるものだ。
けれども今回の来訪者の目的は、私の思いとは全く違っていた。

  若者が常に時代の流れに敏感であってほしいし、コンピュータを駆使してインターネットでホームページを開設するなどは、当を得たものであろう。 それに関して自分史を載せるために、これまでの人生に関わった人の感想をとのことで、思いもつかなかったことである。 けれども、木下兄弟が尾道北高等学校に入学して来たことの出会いによって、木下家の皆様の人柄や家風に接することができたので、 昭和50(1975)年代にタイムスリップさせて思いを述べたい。

  木下剛夫君を語るとき、兄である雄司君の存在を抜きにはできない。
それは昭和52年4月に雄司君が北高校に入学し、その年から私が率いた陸上競技部の男子部員13人女子部員3人の新入部員の一人であったことに始まる。 それまでは男女の先輩が遇わせて6人であったので、部の存在は希薄なものであった。
  陸上部を持った初年度の昭和52年(1977)の尾三地区高校総合体育大会陸上部の部は、入賞者0の惨敗で誰も県総体に出場できなかった。 そのような状況の中で一つだけ他校に出来ないことをやったのは「雲流る大宝の嶺を...」にはじまる校歌の斉唱であった。 誰も反対する者はなく3分の2は1年生部員であったが、尾北陸上部の飛躍を期するに値する出来事で、雄司君もその輪の中にあった。
  夏休みはお盆前の8月8日から12日まで強化練習を組むなどして、1年生が中心の活動で着々と力をつけた。 雄司君の800mの記録は、私の予想をはるかに越えた成長ぶりで2分2秒台に達した。

  一番の思いでは私の甥(兄の長男)が呉宮原高校で同じ種目をやっていて、 高校3年の県総合体育大会で決勝対決になるかなと期待したことである。予選は第一日目の最終種目で行われ、 雄司君は2着で通過した。 準決勝進出でいけると思った矢先にこの組で走った選手の監督が呼ばれ、監察審判員のミスにより、 二日目の最初にこの組だけ再レースとのことでスタミナ消耗が心配になった。 再レースは前日のレースと同じ結果に終わっただけに、この組だけ多く走った分不利な状況となった。 準決勝は予定通りの時間に行われ、心配したことが的中して惜敗し決勝進出はならなかったと同時に、 甥も他の組の準決勝で敗退して対決は幻となった。
  一方尾道中学時代から駅伝で活躍した歴史の流れをうけて、県高校駅伝への出場も大きな目標であった。 1年生部員が主力で、いきなり出場には踏み切れず生口駅伝等に出て試したが、 8km区間で雄司君が好走して自信をつけ、次年度の県高校駅伝出場に確信を得た。 尾道北高校が初出場した県高校駅伝は、昭和53年(1978)の29回大会で、浜本・兼永・木下雄司・柿本・高垣・藤井・矢野のメンバーで14位、 2時間28分56秒の記録を残し満足できる結果であった。 3区(8.1075km)を走った雄司君は28分58秒で区間15位であった。 派手さは無いが、自分の力を認識し、実力を出し切ることに徹した彼の姿は、崇高な印象として私の脳裏に残っています。

  こうして、1年生から部活動を3年間共に続けた最初の部員が、部の基礎を確立して卒業した。
  そして兄雄司君と3歳違いの木下剛夫君が入学した。 何組かの兄弟姉妹部員が入部して来たが、木下兄弟の印象が私には一番強い。

  剛夫君は中学時代にバレーボール部で活動していて、なぜ高校に入学して陸上競技部に入ったのかを尋ねたことはないが、 おそらく兄雄司君の有形無形の影響があったのではないかと思っている。
  彼の同期には、半田君(走り高跳)を筆頭に小浜君(400mH)村上泰史君(長距離)等の実力者が揃っていた。 陸上競技初心者の剛夫君は目立たない存在としてのスタートとなったけれども、 兄が卒業していった直後であり私は無意識のうちに、雄司君を越える成長を期待したのも必然と言える。 このような思いが、彼のプレッシャーとなり苦しめることになったか否かは、その素振りからは判断できなかった。

  真面目さ勤勉さ、素直さ実直さ、温かさは木下家の皆様から伝わってくる人間性だが、 兄弟二人にもそれは受け継がれていることは確かである。 真面目に努力する者が、最高の結果に出会えるのならば、人生の波乱は少ないであろうと思われます。 剛夫君の努力の度合いを物差しで計ることはできないが、少なくとも練習をさぼるとか怠けるとかで注意や説教をしたことはない。 それだけに兄雄司君の記録に、なかなか達することの出来なさに私自身にいらだちがあった。
  そんな中で2年生の県総体が終わり、恒例の主将の推薦指名を監督と3年生の先輩部員で行う時期となり、満場一致で彼が決まった。 前述のように、同期には一年生から県総体に出場し中国・全国大会にまで駒を進めた者もいたが、 部をまとめ活性化させるための中核となるには競技力は劣るけれども、人間としての総合力で剛夫君に決まった。 私もそうであったから良く判るのだが、競技力で劣る主将がリーダーシップをとることの困難さである。 少なくとも3年時の県総体には、主将として胸を張って800mに出場してほしかったし、本人も十分自覚してくれていたと思う。
  けれども当時尾三地区には、世羅高校に800m、1500m、5000mで日本高校記録に迫る選手が育って勢いがあり、 これに押された感じで実現できなかった。
  一方、県高校駅は北高校として3回目の出場に、1年時で2区(3km)を10分42秒で走り、 総合で2時間36分03秒で29位、2年時には4区(8.0875km)を29分39秒で走り、総合では2時間29分12秒で22位となった。 兄雄司君のチームが残した尾北記録に16秒及ばなかった。

  木下剛夫については、本人より私が兄の存在を意識し過ぎたかもしれないとの思いが強い。 彼は彼の道を歩めば良いのであって、要らざる心配であった。
  彼が北高校を卒業し、大阪体育大学に進学して陸上競技部に所属して中長距離ブロックで頑張りだして、 彼を彼の立場だけで見つめるようになったのが正直なところである。大学生活でお金に困るとカレーをつくる。 そうするとご飯にかけ、パンにつけて3日は凌げる話を聞いたことを覚えている。 私にも数年後には大学生になる子供が居たので、見習ってほしいなと思った。
  高校時代に目立った記録が出せなかったのは、私の指導の至らなさであったことを、 大学・社会人となっての彼の活躍ぶりから知らされた。 兄雄司君は、このころから頼れるコーチであった。

  このことを頼まれる前に彼にあったのは、昨年10月びんご運動公園で開かれた「広島県まなびメッセ」の会場である。 奥さんと子ども3人を連れての出会いであった。 結婚披露宴にも招かれ出席させていただきましたが、家庭の歴史を重ねてほのぼのとした家族に育っていることを感じました。 奥様の優しさとおおらかさ、剛夫君の気配りと思いやりを力にし、更に木下家の皆様が培った人間的温かさで、 こころ豊かで幸せな家庭の中心となってください。
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