●歴史 〜創業者 〜木下剛夫とは |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
|
||
中学校の入学式当日、異常に緊張している痩型長顔の少年に気がついた。
此方も転任早々でそれなりに神経が昴っていたが、資料を見て「はは〜ん」とうなづけた。
校区外からの転入生だった。他の生徒もチョロチョロ彼を見てお互いに合図している。
それが木下剛夫少年との出会いの初まりだった。
ところが、日がたつにつれてなぜともなく動きの輪の中に彼がいるようになった。 目立たず気まじめなのだが意外ひょうきん者で、することなすこと巧まないおどけた味がある。 どびぬけて成績が良いのでもなく、目立って格好つけた仕草をするのでもない。 先に立って善い事をしてのけるのでもない。 ユーモアを売り物にするのでもない。平凡過ぎる位平凡な毎日を続けている彼なのに、次第次第にクラスの信望を集めて行った。 ひとつには彼がスポーツが得意。 殊に走ることにかけては能力と努力が自身を呼んで大会などに俗にいうカッコよかったせいもあったろう。 2年3年と進級していく間に、本人も予想だにしていなかってろう生徒会長に推挙される羽目にまで至ってしまった。 中学の3年間は赤ちゃんの3年間と同じ位人間の一生の中で成長発展振りがめざましい。 剛夫君はその最たるものだった。 私というトテツもなくハリキリヤの中年女先生に3年間振り廻された皆の陣頭に立って 「学級憲法」「学級旗づくり」「あすなろ日記」「漢字と英語のノートづくり」 etcにはじまり、人権平和学習や行事に追いまくられた彼とその取り巻き連中はひとりひとりものすごい変容を遂げてくれた。 それでも、中2のある日彼がポツンと「先生、おじいちゃんが死んだ!!」とポタリと幾筋かの涙の跡を光らせた。 いつもと変わってすっかり肩を落とし、幼児めいた口調に度肝を抜かれた私はじっと彼を覗きこんで肩に手を置いた儘しばし無言。 ふっと我にかえり、「剛夫くんよぉ。あんたおじいちゃん好きじゃったんじゃろう? これからずっとおじいちゃんがあんたの後ろについていてたすけてくれてじゃけぇね。」 「大事なことするときはおじいちゃんと二人三脚じゃけぇね」と言った。 恐らく彼は今、このときのことは全然覚えていないに違いない。 卒業式の代表で、送辞だったか答辞だったか読む練習を剛夫君の家まで乗りこんでやったことも今は遠いかすかな思い出になった。 ともかく他の人の何倍もつらいことも楽しいことも体験した彼の中学時代のなにくれが、 21ctの彼の壮年時代にはきっと生きて働くことだろうと大きな期待をしている。 人柄についてもご両親の真摯で明るくその上温かい人間味溢れたDNAを受け継いでいる剛夫君だから太鼓判を押したい。 難を言えば純真でおっとり型だから、生き馬の目をぬく商売の世界向きではチト引きすぎることが多いのではなかろうか。 しかも社会人小学生の時がホワイトカラーだったから余計にその傾向は深いと思える。 リフレッシュビジネスにもおさおさおこたりなく今から準備を整える気概を備えていてくれるだろうか。 しかし彼は生まれついての商人の家庭で育っている三代目さん。 まあ、あまりヤキモキする必要もないのではと70%は信じている私なのだ。 彼と出会ってはや20年近いが、不思議に彼は彼の転機の重大なときどきに何年置きかにふらりふらりと私の前に現れては彼も私も相変わりもせぬつきあい振りで、 彼は私の愚にもつかぬ話をなんらかの指針にしてくれるのが私には嬉しいよりありがたい。 進学しかり。就職しかり。受験。尾道がえり。今回しかり。 とはいえ人生の最重大事に私は蚊帳の外にされ一面安心、反面ガッカリしたものだ。 それは「私達結婚しました」の写真のみの報告!! 彼が一番自信をもって断行したのはひろかさんとの三三九度だったのである。 いざとなったら独立独歩すっかり自律し自立して自信をもって相手の心を自分の心とし、 他の人と自分の両方がきちんと正しくきり結んで行ける道を拓き開いていくことを今の私は露程もうたがってはいない。 |
トップページに戻る ![]() |