●歴史

林次郎の弟 木下勇
兄には大変お世話になった。私が今日在るのは全く兄のお陰だと思い、盛謝している。

私が生まれたのは、大正2年11月30日で兄清俊より一回り下の丑年である。
父林次郎は瀬戸田で、酒・たばこ・食料品・その他雑貨を商っていたが、 病気のため大正13年12月20日47才の若さで亡くなった。 町会議員や華道教室を努めていた父は私に商売を継がせるため尾道商業に行かせると云っていたことを覚えている。

兄は父の死後、後を継ぐため三菱飛行機工場を辞職して瀬戸田に帰って来て、 名も2代目林次郎と改め張り切っていた。 社会に出たら大学を出ていなくては出世できないことを身を以て感じていた兄は、私に中学に行くことを勧めた。
私は兄の言葉に従い広島第一中学に進学。 最初水泳部に入っていたが、3年生の夏に腸チフスにかかり、瀬戸田に帰り母の看病を受けることになった。 母はその為私のチフスに感染し、昭和4年9月3日に死亡した。

自分は3学期から復学したが、サッカー部に入部し、ゴールキーパーとして鍛えられた。 上級学校への進学では、兄に出来るだけ経済的負担がかからないようにと考えて、 姉夫婦が住んでいる大阪市の大阪高大予科と、広島県から補助金を出してもらえる上海の東亜同文書院を受験したところ、 両方とも合格した。どちらにするか迷ったが、学費が要らなくてロマンのある上海の方を選び、昭和7年5月に上海に渡航した。 上海でのサッカーの試合は、上海市の中央にある競馬場での外人チームとの対戦が主であった。

4年生の夏休みに帰国した時、兄一家は大阪に居た。 その時兄から三原市の小松屋の一人娘である春枝との結婚を勧められ、大学へも行かせてもらえるとの話があり承知した。 幸運にも、神戸大学には一発で合格したので約束通り春枝と結婚し、神戸大学に入学したのは昭和11年でした。

神戸大学でもサッカーに専念、関西大学リーグ一部で優勝し日本代表選手に選ばれたが、戦争のためオリンピックに参加できなかったのは残念だった。
大学卒業後直ちに南満州鉄道鰍ノ入社、 昭和14年大連本社経理局に勤務、奉天でサッカー部を作り活躍した。

昭和16年9月18日長男宙誕生、
昭和20年6月20日長女礼子誕生、同8月15日敗戦、
昭和21年7月5日礼子が疫痢で死亡。
昭和22年11月親子3人で引揚帰国し、三原の小松本店に身を寄せた。

昭和23年正月、朝日新聞主催の東西一部リーグの上位2チームのOBと現役の混成チームの対抗大会が開催された。 自分は神戸大学の先輩として出場し、運良く田辺製薬社長の田辺氏に認められ彼の会社に入社。
田辺製薬社長は日本サッカー協会の副会長で、関西サッカー協会の会長を兼務していたので自分は事務局長と田辺サッカー部の主将を命ぜられた。
最初は自分一人で大阪に来て、田辺製薬の天王寺に入れてもらい、後に阪急電鉄の京阪線の沿線に家を借り、妻子を引き取った。 そのうち大阪府の住宅公募に当選し、大阪城に近い上本町2丁目に住むことになった。

田辺製薬では各大学のサッカー部の優秀な選手を年々採用していたので、実業サッカーではこれに並ぶものなく、 全国大会・国体・その他で連続60回ぐらい勝ち続けた。

昭和31年のメルボルン(オーストラリアの主都)でのオリンピックには、田辺製薬の社員から役員としての私の外選手3名が参加した。 オリンピックではオーストラリアに負けて帰国し、間もなく私は福井市の問屋に出向され、翌年には東京工場に転勤。
昭和37年には東京支店に転勤、
次いで昭和41年に松山市の村上戸井の社長に出向。
昭和43年4月29日車の事故で春枝は死亡。
昭和44年に宙は敦子と結婚。昭和45年に自分は台湾田辺製薬社長として台北に赴任。
昭和46年園子と結婚した。
昭和53年11月26日兄林次郎は78才で死亡した。
昭和55年に台湾田辺製薬を辞任して帰国。
昭和57年12月に松山市に家を建てて引っ越しした。
松山では13年間東野上の老人クラブの会長を務め、
平成10年6月に長男宙の家の近くの大宮市に引っ越しして、老後を楽しんでいる。

考えてみれば私は学生時代からずっと兄とは別居していて、 兄の様子はほとんど知らずに過ごしてきたので、上記のことぐらいしか書くことが出来ません。 どうか悪しからず。

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